日本国生活史・文化史
縄文時代以前のはるか昔、日本人の祖先が北方から渡来して以来、近隣の文化を取り入れつつ独自に発展した。
16世紀の半ばからポルトガル人やスペイン人などヨーロッパの人々が来航し、キリスト教や鉄砲が伝えられた。日本の文化は初めて西洋文明に直接接触し、これを南蛮趣味として日本的な形に変化させ、旺盛な消化力を示した。しかし、後の鎖国により西洋文化の受け入れは出島を通じたオランダとの交易に限定された。17世紀以降の江戸時代には、中世の戦乱の時代が終わり、鎖国による閉鎖された環境の中で再び独自の文化が発展した。文化の大衆化が進み、京都・大阪・江戸の三大都市を中心に庶民的な都市文化(歌舞伎、浄瑠璃、戯作、俳諧、浮世絵、大相撲など)が繁栄する。また、国学により日本独自の価値観や文化を見直す風潮も生まれた。この間、アイヌの文化は日本の周縁文化圏として独自の様相を見せる。また、琉球は本土との交流を持ち続けつつも、日本の他の地域とは異なった独自の道を歩む。この状況は、明治維新によって一応の区切りがつく。
明治維新の後、近代的な独立国家としての体裁を整えた。廃仏毀釈や文明開化に見るように国策として伝統文化が抑圧され、欧米の文化が急速に取り入れられた。特に都市部で衣服、食事、建築などさまざまなものの欧米化が進み、庶民の生活に大きな影響を与えた。一方、日常生活では、伝統的な生活習慣もまた根強く残り、特に地方では依然として伝統的な文化が維持されていた。それが解体されるのは、第二次世界大戦後の高度経済成長以降である。大正期には、経済の好景気などを受け、アメリカ合衆国の文化を取り入れた映画やスポーツなどの享楽的な文化が流行した。昭和にかけて都市部では洋風の生活習慣も浸透していく。しかし、第二次世界大戦の戦時下では欧米風の文化が厳しく制限され、伝統文化も政府に統制された。
1945年(昭和20年)に政府がポツダム宣言を受諾すると、アメリカ軍を中心とした連合国軍最高司令官総司令部が日本の政治改革を進め、それと共にアメリカ文化も日本人に受け入れられた。冷戦下の独立とともに西側諸国に組み入れられた日本は、アメリカ流の生活・文化を目標とするようになる。
高度経済成長期に至ると、従来の生活習慣も大幅に変わり、伝統的な文化の多くが日常の場から姿を消していったが、自信をつけた日本人は、自らの文化を再評価するようにもなる。例えば、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会(大阪万博)の太陽の塔は、縄文の芸術をモチーフにしたものとされる。日本映画、ポピュラー音楽、大衆文学などの大衆文化の輸出も盛んに行われ、東アジア諸国や欧米の文化に大きな影響を与えるようにもなった。特に日本製の工業製品、あるいは漫画やアニメやコンピュータゲームなどが世界に発信され、様々な摩擦を乗り越えながら、若い世代を中心に広がっている。
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